ここ数年、福音派教会では著しく変化が生じている。
信者たちは国家変革のための主要手段として
政治活動に比重を置き始めた。その結果、
祈り(しばしば「祭壇」によって象徴される)は
軽視されたり無視されたりしている傾向がある。
祈りよりも政治活動を重視する人々は、嘲笑されたり
信仰と無関係とみなされたりしている。しかし、
政治重視は聖書に反することか? 組織の改革や
聖書の価値観の実現に向かって前進するにあたり、
市民活動に参加することよりも祭壇で
神を求めることが本当に重要なのか?
「祭壇」は祈りを表し、「宝座」は
公的統治を象徴している。信者の生活において
政治的関与の場は確かにあるが、聖書は国家の変革には
祭壇から始まる霊的変化が必要であることを
明確にしている。聖書を調べると、指導者は国家の
神への忠誠に重要な役割を果たすが、真の変革の力は、
神への祈りにおける生活と服従にあることがわかる。
列王記と歴代誌には、この真理を鮮やかに示す例が
数多くある。これらの書は、指導者が国家の神への
忠誠に影響を与えることを強調しているが、
祭祀の重要性も示している。例えば、ダビデ王が
戦いで勝利したのは軍事的な力量が
優れていたからではなく、神に従う心を持っていたからだ。
同様に、ダビデの後継の王たちは、ヤハウェに
忠実である場合にのみ成功を収めた。リーダーシップや
政治的影響力の場は確かにあるが、祈りとヤハウェに対する
犠牲的な服従は、国家の変革において
より強力なものと言えるのではないだろうか。
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