第二次世界大戦中、フランスはナチスの
占領の脅威にさらされていただけでなく、
国内の危険も多くはらんでいた。
そのような危険の一つが、戦争の混乱を
自らの悪意ある目的のために利用した医師、
マルセル・プティオだった。
1897年1月17日、フランスのオセールに
生まれたプティオは、若い頃から窃盗や
暴力など問題行動をいくつか起こしていた。
そのような危険な兆候にもかかわらず、
彼は第一次世界大戦に従軍したのち、
医学教育を受け、1921年に医師となった。
だが、彼の医師としてのキャリアは、
違法な中絶手術や中毒性物質の
過剰処方など、倫理に反する行為に
まみれていた。
第二次世界大戦中、ドイツがフランスを
占領していたとき、プティオはある
物騒な計画を思いついた。
ユダヤ人やレジスタンスなど、ナチスに
迫害された人々に安全な避難場所を
提供すると言い、25,000フランを払えば
南米への逃亡を手助けできると
プティオは唆したのだ。
避難所を提供する代わりに、
予防接種と称して犠牲者に青酸カリを
注射し、所持品を盗み、焼却や生石灰に
沈めて遺体を処分した。
ゲシュタポは、このプティオが作り出した
逃亡ネットワークをフランス・レジスタンスの
一部と考え、その存在に時間が
経ってから気づいた。
捜査の結果、プティオの存在が
浮かび上がったが、プティオは偽名を使い、
パリ解放の際にはフランス内務省軍に
加わるなど、善人を装い逮捕を免れた。
最終的に彼は1944年10月31日、
パリの地下鉄駅で逮捕されることになる。
その後の裁判で、プティオは自分の犠牲者は
ナチスの協力者やドイツ工作員など
フランスの敵だったとの主張を展開した。
しかし、警察が調べた証拠によれば、
彼がレジスタンスとつながりがあった
証拠はなく、犠牲者の多くはナチスの
迫害から逃れようとしていた
無実の人々だった。
結局彼は26件の殺人で有罪判決を受け、
1946年5月25日にギロチンによって
処刑された。
マルセル・プティオの物語は、個人がいかに
混乱の時代を個人的利益のために利用し、
博愛を装って凶悪な行為を犯すことが
できるかを、厳しく思い起こさせるものでは
なかったのだろうか。
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